はじめに
これは、うつ病と診断されてもめげずに働いている僕の半生を記したものだ。
未経験からエンジニアに転職する人もいる昨今、情報系卒でエンジニアとして就職したものの5年目には「うつ病」と診断された。
現在はうつ病とうまく付き合いながら、これからの「生き方」を模索している。
略歴
- 情報系学部卒
- 某メーカー系SIerに新卒入社、7年在籍(5年目にうつ病発症)
- 自社開発のスタートアップ企業に転職、5年在籍←いまここ
うつ病と診断されるまで
学生時代(うつ病予備軍)
当時、既にほとんどの家庭に光回線が引かれていたというのに、僕の家はインターネットが繋がっておらず、父が仕事で使うPCが1台あるだけだった。そんな環境にいたせいか、中学生の頃からコンピューターに興味を持ち、少しでも早く専門的な知識を学びたいと思っていた。そこで、商業高校の情報処理科に進学することを決めた。(工業高校も選択肢にあったが、兄が通っていたため別の高校に進みたいという思いが強かった。)
高校での情報の授業は、3年間で基本情報技術者試験の合格を目指すという内容だった。もともと興味のある分野だったこともあり、2年生で基本情報技術者試験、3年生で応用情報技術者試験に合格した。
大学も当然のように、情報系の学部に進学した。周りの同級生よりも情報処理試験の知識は豊富だったため、情報系の科目の成績は良い方だった。(一方で、教養科目では商業高校出身の僕はかなり苦戦していた。)
しかし、徐々に周りに追いつかれ、3年生になる頃には僕のアドバンテージは完全に失われ、教養科目に苦戦するただの「落ちこぼれ」になっていた。
僕の所属していた学科では、3年生の必修に学部の4年間で最も厳しいとされる科目があった。詳細は伏せるが、ある種のソフトウェアを実装しつつ、年間で十数本のレポートを提出するというものだ。
3年生の夏休み、バイトに明け暮れながらも課題をこなしていたが、その科目のレポートだけは手をつけられずにいた。レポートのことを考えるとぼーっとしてしまい、下手をすると寝てしまうこともあった。ソフトウェアの実装自体はできても、レポートの考察をまとめることができなかった。いや、そもそもテーマについて考え続けることができなかったのだ。
夏休みが後半に差しかかっても状況は全く変わらず、むしろ悪化していた。極度の焦りと不安を感じた僕は、これは何かおかしいと思いメンタルクリニックを受診することにした。
この時点では特に診断はつかず、ただ薬を処方された。それを飲めば何とかなるだろうと思っていたが、現実はそれほど甘くはなかった。夏休みが終わってもレポートは書けず、授業が始まると新たなレポート課題が次々と追加されていった。日を追うごとに気持ちは重くなり、状況は悪化する一方だった。
レポートだけでなく、他の症状も悪化していった。いくら寝てもバイトの疲れが取れず、毎日栄養ドリンクを飲んでしのいでいた。医者に相談しても薬が増えるだけで、症状は一向に改善されなかった。
そんな日々を過ごしているうちに、気づけば3月、春休みになっていた。このままでは留年する——そんな絶望感に苛まれていたある日、友人たちと最終レポートの進捗について話す機会があった。
すでに提出を終えた者もいれば、まだ執筆中の者もいた。僕はついに意を決して、夏休みからレポートを一つも提出できていないことを打ち明けた。
持つべきものは友人である。彼らは僕の書きかけのレポートを見て「今からでも間に合う!」と言い、執筆を手伝ってくれたのだ。最後のいくつかのレポートに至っては、ほぼ丸写しさせてもらった。
友人たちには今でも頭が上がらない。
なんとか完成させたレポートの山を抱え、教授に頭を下げて提出した。その時の気分は「これで本当に良いのだろうか?」という一抹の不安がありつつも、肩の荷が下りたような解放感に満ちていた。
無事4年生に進級した僕は、その後もクリニックに通い、薬を飲みながら何とか卒論を書き上げ、卒業することができた。
就職(忍び寄るうつ病)
僕が新卒で就職したのは、某メーカー系のSIerだった。ITエンジニアとして採用され、新人研修もそつなくこなし、希望していた部署に配属された。
就職を機に上京した僕は、新たに通うクリニックを探す必要があった。しかし、以前から薬の効果に懐疑的だったこともあり、これを機に断薬し、クリニックに通うことをやめることにした。
入社1年目の3月、新人の成果報告会を終え、「新人」と呼ばれなくなり始めた頃、僕の残業時間は月85時間に達していた。
当時の僕はやる気に満ちていて、いくら残業しても学生時代のような疲れを感じることはなかった。
しかし、身体は悲鳴を上げ始めていた。翌4月、就職して初めて寝坊による遅刻をしてしまう。それも2度も、である。そこから、徐々に僕のメンタルに翳りが見え始めた。
月に一度は寝坊をするようになり、タスクをこなすのに時間がかかるようになった。さらにタスクが溜まると、何から手を付ければいいのか、自分で優先度を判断できなくなり、結果としてタスクがさらに溜まるという悪循環に陥ってしまった。
仕事でもミスが増え、「いつから自分はこんなにドジになったのだろうか」とぼんやりした頭で考えることが多くなっていた。
さすがにこのままではまずいと思い、再びメンタルクリニックを受診して薬を処方してもらうことにした。
薬を飲むようになってから半年ほどで症状も気にならなくなり以前と同じように働けるようになった。そして自己判断で服薬・通院を中止してしまった。
そして気づけば入社3年目。周囲からも一人前として認められ始めた頃、人材育成を目的とした他部署との人材交換の話が持ち上がり、5、6名が選出されることになった。僕は、その一人に選ばれてしまった。
異動(うつ病発症)
正直、異動には乗り気ではなかった。外交的な性格ではないし、環境の変化が苦手だったからだ。一応、2年後に元の部署に戻れるという約束だったが、この会社がそうした約束をあまり守らないこともよく知っていた。
それでも、選ばれたからには頑張ろうと気持ちを切り替えた。
異動先は、客先に常駐してシステム構築を行うインフラ系の部署だった。
最初の現場ではネットワーク担当として、システムの物理的および論理的なネットワーク構成や冗長化を検討したり、データセンターで実際に構築作業を行ったりした。この現場では仕事量が多くて苦しい時もあったが、それ以上に学びも多かった。幸い、この頃はメンタルの調子が良く、つらい仕事も前向きに取り組むことができた。
次の現場ではシステム運用設計やバックアップ方式の検討を担当した。この現場は前の現場よりも規模が大きく、複数のグループ会社が協力して業務を進めていた。設計書は社内レビューを経た後、関係部署(特に現行システムの運用チームを担当する別のグループ会社)のレビューを受け、最終的に顧客レビューに至るという流れだった。
現行システムの設計書を参考に新しいシステムの設計書を作成したが、システムに大きな変更がなかったため、設定するパラメータは現行システムと同じ値になることが多かった。
そのプロジェクトは、設計段階から既に炎上していた。進捗は遅れがちで、毎朝と夕方に進捗確認が行われ、そのたびに遅延を報告しなければならなかった。
作業が進まない理由はいろいろあったが、最も大きな問題は関係部署によるレビューだった。レビューが始まると、重箱の隅をつつくような指摘が山のように出され、修正後の再レビューでは前回とは別の指摘が出され、さらにその後も同様の繰り返しだった。
また、現行システムと同じ設定値のパラメータについても、その値を設定する根拠を求められた。すべてのパラメータに根拠が必要だと言われた。デフォルト値でさえ根拠を問われることがあり、パッケージ開発者でもなければ答えられないような場面も多かった。
あまりにも指摘が多いため、合計数百ページはある設計書群を10ページ程度に分割して再レビューと修正を繰り返す状況だった。
毎日、設計書の修正や設定値の根拠の検討、遅延理由の報告を繰り返し、気が重くなっていった。しかし、それでも当時は仕事に充実感を感じていた。深夜まで残業するのが日常だったが、あまり疲れを感じることはなかった。
本格的に炎上し始めると僕の残業時間はみるみる増えていった。そして半年後のある朝、ついにベッドから起き上がることができなくなった。気づけば昼過ぎで、同僚からの電話を受けてようやくベッドから起き上がり、何も食べずに出社準備を始めた。
「よし、仕事に行こう」と思ったとき、突然涙がとめどなく流れ出した。いずれ止まるだろうと考えながら、泣いたまま電車に乗って常駐先のビルの前まで来たが、涙は止まらなかった。自分でも、悲しくて泣いているのか、何が原因なのかわからなかった。
さすがにこのままでは出勤できないと思い、同僚を電話で呼び出して事情を説明し、帰宅。その後、2週間の休みをもらった。
翌日、メンタルクリニックを受診し、うつ病と診断された。
その後は、休職と復職を繰り返しながらも働き続けた。元の部署に戻ったり、転職したりといろいろあったが、今でも何とかITエンジニアとして働き続けている。
うつ病を経て、いま伝えたいこと
うつ病と診断されてから、気が付けば7年ほどが経過していた。
一般的にうつ病の回復過程には、「急性期」「回復期」「再発予防期」3つの段階があるといわれている。うつ病は再発しやすいという特徴があるため、この3つの段階を経て復職したからといって完全にうつ病が治ったとは言いづらい。医学的にも完治とは言わず「寛解」という言葉を使う。
僕の場合、1社目と2社目どちらでも複数回休職をしている。今なお自分が寛解したとは思えないが、こうして冷静に自分と向き合うことができるようにはなった。仕事にも安定して取り組めているし、なにより仕事以外のことにも意欲的に取り組むことができるようになったと感じている。
ここからは、この記事を読んでくれている人に向けて伝えたいことを書いていくことにする。
見過ごしていた小さなサイン
僕の場合、メンタル不調のサインは「焦燥感」と「思考の乱れ」が悪循環を始めることだと思っている。焦りが思考を乱し、その結果何も仕事が進まず焦りが募るという負のサイクルだ。
最初にこれを感じたのは、大学3年の夏だった。この時にうつ病にならずに済んだのは、ひとえに友人たちのおかげだ。原因だった課題に友人たちが協力してくれたおかげで完成・提出することができた。もし、この時留年していたら僕はうつ病になり、何もできずに退学していただろう。
メンタルの不調を感じた際は、人に助けを求めたっていいし、転職して環境を変えたっていいと思う。まずは原因を取り除くことが最重要だろう。
今の僕はこのサインに気づいたら、「何をやるか、よりも、何をやらないか」と考えるようにしている。こういう時は大抵パフォーマンスが下がっていて、タスクが大量にたまっている。先述の焦燥感と思考の乱れで、タスクに優先度をつけてひとつづつこなしていくという基本的なことができなくなっているのだ。しかし、時間は有限であり物理的にすべてのタスクを終わらせるということは困難なのであれば、逆に「何をやらないか」を考え、今やらないタスクを後回しにすることで対処している(もちろん納期があるタスクは納期の調整も行う)。
ある意味これも原因を取り除くことにつながっている。タスクが多過ぎることが原因で焦燥感と思考の乱れを感じるなら、タスクを減らせば原因を取り除くことになる。
繰り返しになるが、メンタル不調を感じたらまず原因を取り除くことを考えよう。
壊れてから学んだ”働き方より生き方”
うつ病と診断されてから、幾度となく休職をした。僕はそのたびに、死んでしまおうと考えるようになったし、実際に行動も起こしてしまった。結果、未遂に終わったが家族や友人、同僚には心配をかけてしまった。
▼詳しい話うつ病によって、僕の心は壊れてしまっていたのだと思う。しかし、長い時間をかけて徐々に回復し今に至っている。
この経験を経て、僕は「働き方」なんてものはどうでも良いなと思った。今自分は生きていて、この先どうやって生きていくのかという、「生き方」を真剣に考えるようになった。
もし、読んでくれている人の中に今しんどいと思っている人がいたら、自分の「生き方」に目を向けてみてほしい。どんな人生を歩みたいか、答えが出なくてもきっと「働き方」よりも大切なはずだ。
壊れた心を、リファクタリングしていく過程
リファクタリングという言葉は、既存の動作を保ったままコードの構造を見直すことを指す。うつ病になってから、僕が行ってきたこともまさにそれだったと思う。
病気をきっかけに、何か新しい価値観を“上書き”したわけではない。むしろ、今までの自分の思考パターン、感情の反応、行動の癖を少しずつ“読み直して”、無理のある構造を見つけ出しては、“置き換えて”いく作業の繰り返しだった。
最初に気づいたのは、「とにかく頑張ればなんとかなる」という無意識の前提だった。
これは、コードで言えば全体に散りばめられたマジックナンバーのようなもので、どこにでも影響を及ぼしていて修正が難しい。焦燥感や無力感が出てきた時、「もっと頑張ればいい」「ペースを落とすのは甘え」といった自己批判の関数が自動で呼ばれる仕組みになっていた。
このバグに気づいてからは、それを「頑張らなくてもいい場面」と「頑張る場面」を見極めるロジックに置き換えていく作業を始めた。最初は違和感があった。まるで誰かのコードを勝手に書き換えるような気持ちになった。でも、それは確かに“今の僕”には不要なロジックだった。
次に手をつけたのは、「できない自分を許せない」というエラー処理のなさだった。
以前の僕は、ミスや遅れをすべて自分の能力不足と結びつけてしまっていた。そこにバッファは存在せず、常にゼロ除算が起きるような設計だった。
今は、処理が止まった時に自分に問いかけるIF文を挟むようにしている。
「これは自分の責任か?」
「外部要因はあるか?」
「どうすればこの状態を少しでも楽にできるか?」
これだけでも、無限ループのように続いていた自己否定から抜け出す足がかりになった。
このプロセスは、一朝一夕ではないし、今でも時折バグは出る。だけど、前の自分にはなかった“リカバリ手段”を自分の中に書き込めるようになった。それが、僕にとってのリファクタリングだった。
壊れた心をまるごと捨てるのではなく、壊れたまま、少しずつ整えていく。
無理のない構造に書き換える作業を、今も続けている。
最後に
僕の場合は学生時代からメンタルに翳りを感じていたので、多くの人に当てはまる話ではないかもしれない。しかし、僕の経験を共有することで誰かの助けになればと思い、こうしてブログ記事にすることにした。
家族や周囲の支えに助けられ、今でもこうしてITエンジニアとして働き続けられていることに感謝している。これからも、自分の心と体を大切にしながら、自分らしく生きていきたいと思う。
